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清泉女子大学と島津山

島津山は、標高は25~26m程度の山と言うよりは小高い丘で、住宅地のほか、山頂部は清泉女子大学があります。

清泉女子大学は、1950年に神奈川県横須賀市に創立されたキリスト教系の大学。ここの大学の敷地や校舎は1962年に日本銀行から購入し、横須賀から島津山に大学を移転されました。

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清泉女子大学のホームページ

清泉女子大学のホームページのトップにある、とてもステキな洋館の建物は、1915年に島津侯爵邸として竣工したものです。こういう校舎で勉強するのはすてきですね。

駅からはそれほど遠くはなく、大崎駅/五反田駅/高輪台駅から大学まで、約10分。品川駅からは約15分。

品川駅からだと少し高台を超えてゆくことになるのですが、朝夕の時間帯は、清泉女子大の学生さんが元気よく歩いている姿をよく見ます。見かけるたびに、がんばれ~って思いながら自分も自転車でキコキコしています。

しながわ百景の看板

旧陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡

   さて、島津山のネーミングの由来など歴史的な話は、上記の写真をクリックしてみればすべて書いていますので、内容の重複を避けて、ここからはすこし島津家のエピソードを書いてみたいと思います。

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意外に思われるでしょうが、江戸時代、薩摩の島津といえば、貧しく、弱いことで知られていました。

その島津が、後に江戸の一等地に島津の殿様の邸宅を建てて「島津山」と呼ばれるようになったことは、江戸時代の人からすれば信じられない出来事だったと思います。 

 

shimazuyoshihirogunki江戸時代は商工・農業・経済が発展し、その中でも商人の台頭は著しいものでした。

その反面、お殿様の台所事情は大変なもので、江戸幕府から強制させられている参勤交代のおかげで、財政はいつも火の車状態。

そんな状態なので、どこの藩でも支配者であるはずの武士たちも貧しく、自分の手元に入ってくる予定の年貢を担保にいれて、商人から借金し、いつも資金繰りに苦労していました。

薩摩藩は、江戸からは遙か彼方に位置しているので、参勤交代にかけるエネルギーや資金は莫大、財務状態も大変で、そのため江戸の人たちからは、貧しくて、そして弱いというように見られていました。

 

そして時代は激動の幕末から明治維新に変わります。

 

明治維新の立役者となったのは武士たちは、新政府に権力を集中させるには、殿様からその身分を取り上げる「廃藩置県」を断行する必要がありました。

きっとどこかの殿様が反政府軍の兵をあげるに違いない……そんな危機感から、薩摩・長州・土佐は、新政府直属軍を組織します。

しかしふたをあけてみると、全国の殿様たちは一人残らず、新政府の借金免除の条件にとびついて、東京に用意された屋敷へと移り住みます。

 

それくらい経済難が全国の殿様を苦しめられていた江戸中期以降、他藩よりも貧しいと思われていた薩摩藩が倒幕のための公家などへの袖の下(賄賂)や志士たちによる倒幕活動を続けることができたのは、奇跡的なことだと思います。

おそらく徳川家が攻める気になれないほど遠方だった地の利と、代々の名君と、教育熱心な藩であったことから殿様を支える優秀な家臣に恵まれたからでしょう。

島津山は、そんな歴史を持つ島津の元殿様が邸宅を建てたところです。

清泉女子大学の入口

清泉女子大学の入口 右側にはしながわ百景の看板

 
清泉女子大学は、そんな日本を変えた深い歴史をもつ島津家の名前の地名にした、島津山にあります。

今の時代は女性が輝く時代です。

すてきな校舎で学びながら、古き歴史をあたためつつ、これからの日本を考える人材や志を持った学生さんが清泉女子大学で学び、たくさん育ってほしいですね。

清泉女子大学のホームページ

 

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